「米国」という名の「正義」〜〜巧妙なメディア・クーデターとチャベス主義者たちの攻防〜〜

米帝支配からの開放への地獄の門

今年に入ってから、ウクライナの混乱の影響で石油の供給が追いつかない状態が米国で続いており、バイデン大統領は、ベネズエラに対し課していた制裁を緩和させることを仄めかしている。そして今年に入って、フアン・グアイド暫定政権は野党からの支持を失い、事実上崩壊し、グアイドの自滅という結果となっている。でも、なぜ政治的混乱が今も続いているのか?

その大きな原因は、米国が石油利権を得るために、自分の傀儡政権をベネズエラにおいたからである。そして、その石油で得た利益は富裕層のもとに多く行き渡り彼らは高層マンションに住み、貧困層はバラック小屋みたいなところで住むという超格差社会であった。石油依存の経済は外部からの変化には弱く、1980年代後半より石油価格の下落による緊縮策が物価の上昇を招き。そして、1989年その貧困層の鬱憤は爆発した。とうとう、カラカソ(別名:カラカス暴動)が発生した。その暴動は9日間に渡り継続し、治安部隊との衝突も大きく、治安部隊が民衆に向かって発砲したため、公式発表では277人死亡、2000人を超えているという意見もある。死体で溢れかえり、棺が足りなくなるほどの地獄絵図であった。

その事態を重く受け止めた、当時将校のウゴ・チャベスは1992年2月にクーデターを起こすが、失敗した、ただ投降時、テレビマイクの前で、同志に向けた演説は貧困層の人々の心に焼き付くことになる。11月にも彼の同志がクーデター未遂を起こす。

そして1998年ウゴ・チャベスは民主主義のもと政治家として、大統領選挙に立候補した。彼がいつも言っていたことは「憲法を読みなさい」であった。貧困層は政治とは無縁で無意味だったが、政治に参加できるということが貧困層の心をつかみ当選した。その後、彼は石油で得た利益を人々に分配する政策を掲げ、国営石油会社の人事に介入できる法律を施行した。それが、富裕層の怒りに火をつけた。この結果、反チャベスのすべての民放と市民団体がネガティブキャンペーンを始めた。その中傷の内容は「野党が最高裁判所に大統領は精神疾患があることを提訴した」「大統領はフィデル・カストロ議長に異常な愛情を抱いている」などがテレビで放映された。それに対抗するため、彼は”aló presidente!”「もしもし?大統領!」を国営テレビで毎週生放送し、国民からのお手紙などに返信するもので、画期的なものであった。彼は民意の獲得のために奔走し、民主主義で米国と反体制派に立ち向かったのである。しかし、国内の反体制派より過剰に反発したのはブッシュ政権が率いる米国であった。石油利権を奪われたくない米国は徹底した妨害工作を行った。「彼の考えている民主主義には疑問がある。」「コロンビアのゲリラと関係を持っている」など徹底した反チャベス工作を行った。

そして、2002年4月9日、反チャベス派のゼネストが発生し、デモ行進を行った。その前日には、民放での呼びかけもあり、約100万ものデモ行進が実現した。それに対するように、チャベス派も大統領官邸前で集会を開催した。だが、事態は急変する、反体制派のデモ隊が許可外の大統領官邸前方面に進み始めた。もちろん違法承知である。チャベス支持の国営放送は「挑発には乗らない」と民主主義を守るべく支持者に呼びかけた。両者睨み合いになり、衝突が起こるかと思ったその瞬間、銃声が響いた。反体制派の人々が顔を狙われていた。結果的にこの銃撃で19人が死亡した。ただこれは悪手になった。民放はチャベス支持者が非武装のデモ隊を銃撃したと報道した。それが国軍の上層部の怒りを買い、テレビにて、軍の将官らが「大統領の支持をやめる」と軍事行動を示唆した。大統領府は大混乱に陥った。4月11日の夜には国軍が完全に離反し、チャベスは絶望し自殺を考えるまで追い込まれた。しかしここで国外から一本の電話が入った「絶対に自殺はするな、大人しく軍に出頭しろ」キューバのフィデル・カストロ議長からであった。彼も1953年にキューバ革命を起こすためにモンカダ兵営を襲撃したが鎮圧され、死刑判決まで受けたが、カトリックの神父に助けられ、その後恩赦で釈放され、その後革命に成功した経験からのアドバイスであった。彼は軍に連行されることを決め、「諦めないぞ」と連行される直前に述べた。その後、元ベネズエラ商工会議所連合会(Fedecámaras)議長のペドロ・カルモナが暫定大統領として就任し、国民議会や最高裁判所などを次々に解散させた。その頃チャベスはベネズエラ北部のある離島に拘禁された。

こうしてチャベス大統領を監禁し辞任させる・・・というシナリオになるはずだった。しかし、9日の銃撃に関して、実はチャベス派の人々たちは反体制派を銃撃していなかった。この銃撃は橋の下に道路がある道で起きた。下の道路には一切人がおらず、人に向けて撃っていないこと、そして反体制派への一連の銃撃は反チャベス派の手によって起こされたと後に判明している。更に、米国はこの一連の騒動を事前に知っていたことが判明した。大富豪らが所有する民放はチャベス大統領を辞任させるために、事実を捏造して報道していた。こうして一連の出来事が発生した。私はこれを中南米諸国史上初のメディア・クーデターだと思っている。

暫定政権は強権で国を支配しようとした。そして、デモをしたチャベス支持者は警察に弾圧された。

チャベスがこれまで政権維持していた3年間は暴力のない政治をしていた。これが一瞬にして崩れたことに貧困層が大反発した。ただ、国営のテレビは乗っ取られた状態であり、クーデター派の有利な状況になっている。しかしチャベス派の閣僚たちは、「チャベス大統領は軍に拘束されており、辞任はしていない」という情報をケーブルテレビを通して流した。これはチャベス支持者の希望の光となった。その翌日13日にチャベス支持者たちは立ち上がった。大統領官邸を取り囲み、チャベスを支持するデモをしたのである。最後まで忠誠を誓い続けた大統領警護隊が大統領官邸を囲むように配置に付き、合図が出た途端に制圧を開始、それを見た暫定政権は一目散に逃亡し、たった2日で無残にも崩壊した。

でもまだ危険は残っていた。副大統領が逃亡中で新暫定大統領が決定しない状況であった。この状況では軍が市民に対し虐殺を起こす可能性があった。その後、副大統領が見つかり、暫定大統領の宣誓をした。その後、国軍もチャベス派に寝返り、チャベス大統領は解放され、官邸に帰還した。一連の事件は多少の犠牲を伴いながら終了した。

この出来事は民衆の強さを示したとともに、チャベス政権の独裁化にもつながったと私は考えている。この後、チャベス政権はメディアの免許更新を拒むなどメディアに対し、締め付けを行ったのである。自殺の一歩手前に追い込まれたチャベス大統領の気持ちを鑑みれば分からない話でもない。このような背景が2019年の政治危機に影響を与えたとも言える。

このクーデターの約1年後、アメリカは産油国のイラクに大量破壊兵器を所有していることをでっちあげ侵攻することになる。まんま、現在ロシアがウクライナにやっていることを20年前アメリカは行ったのである。ブッシュ政権というのは、かなり狂っていたと言っても過言でもないだろう。そのせいで、治安が極度に悪化し、イスラム過撃派に日本人が殺害される事件も発生した。疫病神の米国は、イラクの属国化に失敗したどころか、国内をむちゃくちゃにした結果になった。

現在、ペルーで左派の大統領がクーデターで失脚し、新米政権が樹立された。近年、アメリカ合衆国に対し反撃の狼煙が中南米で登り始めており、米国はこれを止めるために、手を焼いている。

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